人称代名詞に「こだわる」こと、「こだわらない」こと

 どこからまわってきたのか忘れてしまったが、この文章を読んで、我が家での状況をおさらいしつつ述べてみたい、と思ったので、少し書いてみる。

日本語ジェンダー学会 学会誌(日本語とジェンダー)4号/第3回年次大会基調講演 「日本語とジェンダーおよびセクシュアリティ」(東洋大学講師 マリィ・クレア)

 で、このうち、我が家での状況に私が複雑な思いを抱いているのが、「人称代名詞」の項。ズバリ、一人称をどうするか、という問題である。

 

 問題の始まりは、私の一人称へのこだわりからであった。

 ジェンダーやセクシュアリティーに関しては、基本的に「こだわらない」のが私のポリシーなのであるが、どうしてもここだけは「例外」にしておきたい私。そんな私の一人称は、プライベートな場でも「わたし」。「おれ」は男臭すぎるし、「ぼく」はなよなよした感じがして使いたくない。事実上「消去法」で選んだこの「わたし」という一人称を、私は大事に使い続けている。しかし、私の妻*1が、「男言葉、女言葉は文化だ」という、私とはある意味相容れない考えの持ち主だったからたまらない。息子の一人称を「男言葉」に矯正させるための「旅」がはじまった。そう、息子が父である私を真似て、一人称を「わたし」と発声することを気に入らなかったのである。

 当然、最初に標的にされたのは私であった。しかしながら、私は「いや、これはわたしのポリシーだから絶対に変えない」と言い張ったためか、妻は仕方なくあきらめ、娘に協力を仰いだ。しかし、その頃の娘の一人称は「うち」*2。今度は、息子が一人称を「うち」と発声するようになってしまう。妻の心中のくすぶりようはいかほどだっただろう。

 しかし、やがて、娘は妻の意見に耳を傾け、協力体制を敷くようになった。家の中で息子と一緒にいるときには「おれ」を一人称にしたのである。その結果、息子の一人称も「おれ」となり、やっと平穏な団らんが訪れたのである。いまでは、大騒ぎするまでもなく、息子は息子で学友から影響され、娘は娘でフリーダムに、一人称を自由に選択しているようであるが、だからこそ、なぜあの頃妻が「一人称」にあれほどこだわったのか、いまだに不思議で仕方がない。

 

 そして、いま私は娘と息子から「パパさん」と呼ばれている。私自身は「お父さん」と呼ばせたかったのだが、これに関しては妻の「呼ばれ方なんて関係ないでしょ」という説得に屈して、やむを得ず従ったのである。しかし、この呼ばれ方は未だに好きになれない。「パパさん」と呼ばれると気が抜けてしまうのである。

*1:もと国語科教諭

*2:まあ、これも女言葉ですよね