「身を乗り出して」見た舞台。これはもう「二枚看板の芝居」と言っていい――『雪まろげ』観劇記

 「私は笑えない」。

 主人公の夢子が、新聞記者で「詩人」の大悟が持っているメモにあった失恋の詩を聞いて笑う他の芸者衆の前でこぼす科白です。私はゲームでもそうですが、舞台でもその「物語」を追いかけるとき、登場人物の気持ちに没入していくタイプなので、笑っていた観客たちがこの科白で静まりかえってしまう、その間は本来愛おしくもあるものなのでしょうが、私には関係ない、という見方を自然ととってしまっていました。特に第二幕、私はほとんど笑うことなく役者さんたちの演技に見入っていました。よって、この観劇記にこの舞台の「喜劇としての良さ」が書かれていることは期待しないでください。それは他の人にしてもらえればいいと思っています。私がそんな風に、久々に「身を乗り出して」見た舞台――それが、日比谷・シアタークリエでの『雪まろげ』公演です。

※以下、スタッフは「氏」の敬称付き、キャストは敬称なしでの記述となります。

 主役の高畑淳子の「息子問題」で荒れに荒れた開演前。「あちこちでチケットの払い戻し相次ぐ」といった悪い噂も飛び、事前にはこんな心配もしていたのですよね。

 まあ、そのおかげで話題を呼んだ部分もあるのでしょうが、ネットでいろいろ検索した状況では、テレビドラマなどでおなじみでもやはり「舞台でこそ必要とされている」女優である高畑淳子を見に来たファンと、タカラヅカ出身の湖月わたるを見に来たファンが二大勢力と思しき感じのような。

 

 そんなシアタークリエでの『雪まろげ』は、三つの成功ポイントを持つ、極めて良質の舞台に仕上がった、と言えます。

 

 まず第一にして最大の成功ポイントは、事前にメインキャストを決めてから脚色・演出へ、というプロデューサーの三上良一氏と脚色・演出の田村孝裕氏のコンビだったのではないでしょうか。これは田村氏の「あて書き」(キャストをイメージして脚色すること)の良さを理解している三上氏というコンビネーション(ここもチームワークと言える)を中心に基本構成を作り、舞台全体をうまくコーディネーションできたこと。これで「『森光子版』を超えられるか」というお決まりかつ考えなしの課題提示を全く無意味にしたわけです(『森光子版』を知らない私がこうして「劇評」できるのはこの点に負うところが大きい)。その上で主演・夢子の「恋バナ」などの「男女の沙汰」はあくまでも横糸に、芸者衆の「群像劇」を縦糸に持ってきたことで、芸者衆の「表向き」とその「仲間への気遣いを見せる」場面との明瞭な書き分けができ、人間の愚かさと温かさをしっかり描き出すことに成功したのです。役者の皆さんも、場ごとの演技の方向性が明確になっているため演じやすかったのではないでしょうか。そして、横糸の「男女の沙汰」と、縦糸の「仲間としてのほんとうの温かさ」とが矛盾なく描かれ、喜劇である部分とのつながりも破綻することがありませんでした。また、舞台緞帳から薄手のシルクスクリーンを下げて、あるいは舞台背景を使い、映像や詩を映し出し、時には場面転換の時間を生かし(歌でつないだ部分も含めて、観客の舞台への集中をうまく持続させた)、また時には観客の理解を助ける工夫も、特筆すべきものでしょう。松井るみ氏の美術とこれも三上良一氏の照明のやはりコンビネーションでの仕事です。詩はその場面での役者の心情とうまくリンクさせて、効果的に使われていました。

 

 二番目の成功ポイントは、この作品が王道の「商業演劇」作品として作られたことと、縦糸に「群像劇」を持ってきたこととが相まって、芸者衆の「チームワーク」が最重視されたことです。

 私がこの舞台について、事前に高畑淳子のパワーと個性を前面に出すようなイメージの宣伝が多く行われたことで、とても気になっていたことがありました。ストレート・プレイには大きく分けて「個性と個性とのぶつかり合い」を核とするものと、「チームワーク」を重視するものとがあります。前者は小劇団系に多く、後者は商業演劇系に多いのですが、榊原郁恵をキャスティングした上で、もし「個性と個性とのぶつかり合い」を指向していたら、この作品は「銀子のキャスティング・ミス」と言わざるを得ない状況になっていたのではないか、と思われるのです(榊原郁恵主演で話題となった1994年の音楽劇『サザエさん』は、「個性と個性とのぶつかり合い」が核となったために榊原郁恵の居場所が確保されず、翌年の再演ではキャスト変更された)。多くの観劇感想に書かれているとおり、榊原郁恵の役は普段の彼女のイメージからかなりかけ離れた役。本人もそれなりに役作りに時間がかかった様子がプログラムのキャストトークにうかがえるのですが、この人は実は「役」ではなくて「使い方」にポイントがある女優で、自分の個性で舞台をドライブするのではなく、チームワークの合った共演者があってはじめて「舞台の華」になれる人なのです。それを三上-田村ラインがわかってキャスティングしていたのかどうかはスタッフトークに出てこなかったが故に不明確ですが、そこさえ押さえておけば、これだけ舞台できちんと実力を発揮できる女優さんも少ない。今回は方向性ゆえこのキャスティングが吉と出て、この中では文句なしに抜群の実力派である高畑淳子が独りだけ浮き上がることもなく、榊原郁恵の演技特性もうまく生かすことができたわけです。まさに「天から『あたたかい雪』が降ってきた」と言える幸運に、この舞台は恵まれたわけです。

 

 三つ目は、劇場スタッフの皆さんの心遣いです。突然何を、とおっしゃられる向きもあろうかと思いますが、このツイート群をご覧あれ。

 私は最後列の中程からこの様子を拝見しておりました。舞台上の芸者衆に負けず劣らずの温かい心遣い。もちろんこうした誘導やブランケット・座布団の配布のみならず、「二幕目の前に飲みきった飲料入れのプラスチック(本来客席に持ち込んではいけないはずのものであるはずだが)を回収する」気配りが、単に「観客をお客様として大切にする」だけでなく、「舞台の気持ちいい進行を助ける」役割をきちんと果たしていました。開演前、ネットで予約したチケットの引き替え時に、開場が近いこともあって「(チケットを紙袋から)出したままの方がいいですね」と紙袋の上にチケットを載せて渡してくれた窓口スタッフの方も含め、これはほんとうに素晴らしいことであり、改めて劇場スタッフの皆さんの素晴らしい仕事ぶりを称え、敬意を表したいと思います。

 こうした、あらゆるこの舞台作りに関連する人たちの対応が、この舞台を成功に導いていることは、いくら強調してもしきれることはないでしょう。

 

 キャストの演技については、夢子役の高畑淳子は役に求められる「愛らしさ」をときにオーバーなアクションを交えつつうまく表現した上で、「流浪の人生の悲哀を背中で魅せる」要求にも見事に応えている。銀子役の榊原郁恵は、特に書き分けの極端な役柄でありながら、それらをひとりの登場人物として違和感なく表出している。この二人が踊る津軽甚句の舞踊の場面はこの作品の見せ場の一つともなっているし、それぞれにソロでの見せ場もあり、もはや「二枚看板の舞台」と言ってもいいのではないか。柴田理恵は「喜劇」であることと「姐さん芸者」役という役どころを正確に捉え、安定した演技を見せる。青木さやかは表面的には「憎まれ役」だがそこにある憎めない要素をしっかりと見せ、湖月わたる高畑淳子とも的場浩司とも十分に渡り合う。山崎静代も彼女ならではの味を出し、的場浩司の演技も場に合い全体をきちんと引き締めている。メインキャストそれぞれの良さが出ていたのはまさに三上-田村コンビの思惑通り。旅館の女将役の臼間香世と常連客役の井之上隆志の芸達者さも評価されるべきでしょう。

 

 私が拝見した回(10月15日の夜の部)では、カーテンコールのアンコールが三度となり、最後には観客の大部分がスタンディング・オベーションとなりました。日本人もずいぶんスタンディング・オベーションに慣れたものだ、とも思いましたが、これは、「役者と観客との一体感」が十二分に高まったことの証明であり、これに応える高畑淳子・榊原郁恵ご両人のとびきりの笑顔も印象に残り、興奮冷めやらぬ夜となりました。

 


 

 最後に一つだけ謎を。あるブログでのこの説が気になっております。私にも一瞬そう聞こえたもので。

そういえば。たぶん。
最後の、津軽海峡冬景色の2番からは、
郁恵ちゃんが歌っていたと思うんだが。。。ちがうかな。
石川さゆりではなくたかはた淳子母さんでもなかった。