すべてをテレビジョンのフレームの中に押し込みたい――青年劇場企画「相貌」観劇記

 そろそろ公演も終わったと思うので、公開します(私は12/16夜の部を観賞)。

 青年劇場・スタジオ結企画第5回公演「相貌(そうぼう)」を見てきました。今回は、ちょっと残念な感想です。

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 80席ぐらいしかない小さなスペース(基本的には劇団の稽古場を小劇場に改造したもの)で、そのスペースをめいっぱい有効に活用しつつ、正味2時間半の濃密な劇が繰り広げられるわけですが、いかんせん見る側が「消化不良」を起こしてしまいかねない構成でした。

 ひとつのテーマとじっくり向き合うことがふさわしい演劇の舞台。今回はいまの世相を十分に織り込みつつ、《「狂気の政治」がどのようにして成り立っていくのか》を描いていくのですが、本来「時間をかけてじわじわと醸成されていく」はずのテーマにはそぐわないほどにジェットコースタードラマ的な展開と、日本人にはなじみの薄い「移民」問題を横糸に選んでしまったこともあってさあ大変。しかも写真にある通り、第一部が1時間45分と長く、そこにこの舞台が訴えかける問題点がすべて盛り込まれてくるので、どこがどう問題なのかを把握しきれないか、もしくは把握できても整理する暇などなく、ドラマが展開されます。こうして時間が経ってから観劇記を書いているのも、「自分なりの論点整理」が必要だったから、と言い訳しておきます。なお、私も「移民」問題には詳しくないので、劇の中で触れられた問題点についてはある程度咀嚼できたつもりですが、それでも「あるべき方向性」に関して述べる資格などありません。どなたか補充してくださると嬉しいのですが。

 劇中、室内数カ所に設けられたテレビを模したフレームを通して、テレビニュースが次々と流れてきます。それらは最初のうちは事実のみを淡々と述べていくのですが、やがて討論番組になったとき、テレビ局はその「牙」を先鋭化させます。「熟議」によって出したある問題への対処方法が「某政党側にとって都合が良かった」ことから討論番組に引っ張り出された、いろいろな立ち位置を持つ女性七人衆。「女性の活躍」にもピッタリですし、「女性がこういう意見を述べているのだから、まさか目に見えて反対する男性もいないだろう」という「裏にある意図」も見え透いているのですが、いくつか出る「某政党の政策に対する反対意見」もいつしかかき消され、最後には「国民の党」なる一政党の宣伝の場と化し、そして七人衆は「国民の党」に「拉致」されてしまいます。そして、「政策発表会」で「お人形」にされた七人衆の一人がとうとうその感情を「爆発」させるところまで(その先ももう少しあったような気がしますが)が第一部。第二部は、「移民」問題の根本を突こうとした(でも第一部での論点整理ができていない人にはたぶんその根本は伝わらなかったであろう)ドラマの続きと、「熟議」がズタズタにしてしまった七人のそれぞれの心境やその背景にある事実の暴露とが続いていきます。

 最後、おそらく、控え室から出ていった七人衆は、ある一人を除いて(ひょっとしてそのある一人も、かも知れない)は、結果として「国民の党」側の立場を崩さずに「熟議」の場に臨むことになるのでしょう。それが想像できるからこその「狂気の恐ろしさ」を、いったいどれだけの人が「共有」できるのか。じわじわと迫り来るものがなかっただけに、そこがとても残念な気がしました。

 この「劇」に再び日の目を見る機会があるとするならば、「30分もの」の連続テレビドラマ(7-8回ぐらいに分割されることになるでしょうか……1クールまで伸ばせるかは微妙ですね)として見たいと思います。「一回30分」にするのは、視聴者自らによる「論点整理」を助けるためと、「狂気」がじわじわとやってくることを「実感」させるために。この劇の構成は、テレビドラマのフレームに実によく合います。そのジェットコースターな展開も、テレビのフレームをめいっぱい有効に使うその舞台装置も、そして、劇中に「論点整理」を助ける基礎知識共有のための映像をインサートできることも。そして、狂気というものが、最初は「そんなの心配することないじゃんw」と嗤われてしまうようなごく小さな気配からスタートして、ゆっくりじわじわと垂れこめていき、やがて突然目の前が真っ暗になる事実として提示されることも。この劇のすべてが、テレビジョンのフレームという「仮想現実」の枠に収まって我々の眼前に顕れるとき、その問題があたかも「仮想現実」ではなく「ほんものの現実」であるかのように、我々には見えてくるのではないか、そう思えるのです。そしてもうひとつ、「WYSIWYG (What You See Is What You Get) 」という活動名が、「あなたは、あなたに見えている範囲からしかものごとを判断できない」という「裏の意味」を持つことも、もっとはっきりさせられると思うのです。

 演技面では、主役の伊藤かおるさんの熱演が光ったほか、高安美子さん、白木匡子さんの演技が印象に残りました。そして、最近の青年劇場は若い男優の好演が続いています。前作の安田遼平さんに続き、今作も横矢翔剛さんが。若い世代が、いい意味で劇団員に刺激を与え続けることは、劇団そのものの活性化に繋がり、さらに興味深く印象に残る舞台を見せてくれることへの期待が高まります。来年の青年劇場にも、大いに期待したいと思います。

観る者に「気づき」と「勇気」を与える二時間――青年劇場『羽衣House』観賞記

 施設の管理責任者の「覚悟」が素晴らしい。
 セリフの中にさりげなく、しかし重く社会問題が語られるのが素晴らしい。
 劇の進行にシンクロしていくように設計された舞台と装飾とが素晴らしい。
 立場の違う人たちが、ひとつの目的に向かって力を合わせていくその過程が素晴らしい。
 そして何より、基底に流れるのが「人間賛歌」であることが素晴らしい。

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大島憲法の話がメインじゃなかったんですかぁー! でも、もっと大きなテーマがそこに ―― 青年劇場「みすてられた島」鑑賞記

 あの人たちを、あんなに一生懸命で優しい人たちを、一人たりとも見捨ててなるものか!(takayan、こころの叫び)

  最初にお断りしておきます。タイトルはある意味釣りですが、テレビではそう報道されているようなので、勘違いされないように、という意味もあります。

 青年劇場さんの創立50周年記念公演・第三弾「みすてられた島」の初回を紀伊國屋サザンシアターで観てきました。作・演出の中津留章仁氏は、ご自身が主宰の劇団「トラッシュマスターズ」では休憩を挟まない長い劇の上演で有名なようですが、今回は休憩をはさんで2時間50分ほどのお芝居です。青年劇場さんには「普天間」という初演時は4時間近い長さ3時間だった作品がありますので、そこまで長くなくて高年齢層にも低年齢層にも少し優しい上映時間と言えましょう。以下、できる限りネタバレが少ないように注意して書いていきますが、どうしても触れざるを得ない点もありますので、そのあたりをご容赦いただける方のみ、「続きを読む」以下をどうぞ。

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「事実」と「真実」との間にあるものを抉り、問題点を際立たせる――「風刺」の効かせ方について考える

 きょうは、「いずみの」さんこと「泉信行」氏からネタを振られたような気がするので、少し、いやとっても硬い記事になりますが、一筆したためてみようかと。「風刺」というもののあり方について、です。


 まずは、きっかけになった「いずみの」さんこと「泉信行」氏の連ツイートと、それに関する私の所感、さらにそれを踏まえてのいずみのさんのツイートを引用しておきます。

 きっかけになった「いずみの」さんこと「泉信行」氏の連ツイート。この前に、「虚構新聞社社主UK氏の深夜のつぶやき - togetter」というツイートまとめへの「批判」ツイートのリツイート(https://twitter.com/lastline/status/414261138683998209)があるのですが、ここには載せないでおきます。各自リンクをたどってご参照を。

 それに対する私の所感。

 さらにそれを踏まえてのいずみのさんのツイート。

 以上がきっかけなのですが、まず最初に私の意見を書いておきます。虚構新聞さんの記事については、「風刺」として成立しているもの、成立させようとして違う意味で成立してしまったもの、単なる「悪乗り」になってしまっているもの、の三つに分類できるが、「風刺」として成立させようとしたものに関しては、そのままのスタンスでぜひ続けていってほしい、と思うものです。第三の視点については、文中で少しでも明らかできればいいなあ……(努力目標)。


 ……そんなUK氏を落ち込ませているのが、なんといっても「日本ユニセフ協会からの強い要請による記事削除」事件でしょう。まだ75日までは経過していませんが、忘れてしまった方のために魚拓にリンクしておきましょう……と思ったのですが、ウェブ魚拓がメンテナンス延長中のため、この事件とそれに対する批判のズレている点についてものすごく手間をかけて分析しているブログ記事をご紹介しておきます(ぐぐる先生、ご紹介ありがとうございます。そして、こういう「所与のはずの(定義)内容」についてあらためてわかりやすく解説するのって、ものすごく大変なことなんですよ……ブログ作者さまのお骨折りに強く感謝の意を表します)。

【必読】「虚構新聞を批判する人々は2パターンに分類できることがわかった【ユニセフ記事の魚拓あり】」 - 大彗星ショッカーのヒマつぶし2

 私の方でもう少しだけ補足しておくと、「風刺」というものは、漫画では絵とセリフ両面からのサポートがあるため、どの部分(コマ)がそれなのかが比較的わかりやすいのですが、これが文章でということになると、「ネタ」の中にさりげなく含めるかたちで行われるので、書いた人の「意図」を正しく読み取る力、すなわちさきほどのブログ記事でも強調されていた「読解力」が必要になるんですね。このブログ記事は、「ネタ」の中にある「風刺」が具体的にどこなのかを明らかにした上で、「ネタ」を「風刺」と読んだり、「風刺」を「ネタ」と読んだりした人の具体的な論述にメスを入れる、というとても丁寧な解説をされています。……ここまでが「事実」の把握、としましょうか。


 ここからが本当の意味での「課題」への私なりの回答になります。長いので注意。

 さて、日本ユニセフ協会さんは、某大使を対象としたUK氏による「風刺」を直接の原因として、虚構新聞社への記事削除要請を行ったのでしょうか? 大のおとなが多数いる組織が、たったひとりで、しかも単にウェブサイト上だけで細々と運営している「虚構メディア」に対して、なぜ「削除要請」などという、それこそ「大人げない」措置に出なければならなかったのでしょうか? 私は、そこに日本ユニセフ協会において、一般化されてはまずい「真実」があったからなのではないか、と思うのです。

 国連の中の一組織であるUNICEFは、各加盟国に置かれる組織(国内委員会)に対し、集められた募金額のうち25%までについては、組織の運営経費として使うことを許してします。日本ユニセフ協会も、その規定に基づき、募金総額の25%に満たない部分を「経費」計上してきました。そこまではいいとしましょう。しかしながら、「当(東日本大震災)緊急支援に必要な資金を上回るご協力をいただいた場合(被災者の皆さまへの支援が行き届き、ユニセフ日本ユニセフ協会が提供できる内容の支援が被災地では必要ないと判断される場合)、ユニセフが実施する他国・地域での紛争・自然災害などによる緊急・復興支援に活用させていただくことがありますので、ご了承願います」と明らかにした(Wayback Machineによるアーカイブを参照:当該文書は「上書き」されているため)ことにより、日本ユニセフ協会は真正面から多くの批判を浴びる結果となりました(現在は、「当協会でお預かりした東日本大震災緊急募金は、全額、子どもたちを中心とする被災者の方々への支援に活用させていただきます。」と謳われている)。これらの批判があったために、日本ユニセフ協会はいま現在、資金使途の「透明性」についての報道には相当以上に注意を払っているのではないか、と思われます。その状況において「茶化し」=「ネタ」としての「透明化」記事が掲載された。これはまずい! となったこと請け合い……という推測なら容易に行うことができます。

 なんということでしょう! 以上から導かれる「真実」は、《「ネタ」であった部分に過敏に相手方が反応してしまったのではないか》、ということになります。ぶっちゃけ、この「勝負」は(私の判定では)虚構新聞社の一人勝ちなのですが、ただ虚構新聞社にとっても削除依頼があった時点で「風刺」部分ではなく「ネタ」部分が削除理由とされた可能性があるため「喜べる勝ち方」ではなかった。ゆえに、「問題を明らかにするために」削除措置に応じた上で、見解の説明を兼ねて報告記事をアップする、という対応になったものと思われます。


 以上、「事実」と「真実」の洗い出しをした結果として、この記事では、もともとの狙いとは違う「ネタ」部分が実は「真実」に迫っていた、ということになってしまいました。「風刺にリスクがある」ということのひとつの典型例だったわけで、正直なところ、ものすごく不幸な結論です。本来なら、「事実」をもとにして「風刺」として抉った部分から「真実」を見せる、そして隠された問題点を際立たせる、という流れになって欲しい(これこそが「風刺」としての「あるべき姿」)。そして、「虚構新聞」にはそれが立派に出来ている記事もあるのです(例えば、この記事などはその典型ですよね、もうどこにも「ネタ」はなく全編全力での風刺)。だから、これからも全力で頑張っていって欲しい。たまには今回挙げた例のようにある意味「ハズレ」になる場合があっても、それにめげることなく。……いまそういう姿勢を表明することが、「風刺」文化の灯火を消さないために最低限必要なことなのではないか、私はそう思うのです。


 それで、「第三の視点」はどうしたって? 文章での「風刺」については、どこが「風刺」なのかを読み手の側にはっきりわからせるための「作り手側からの配慮」がより強く求められている、ということになるんでしょうね。作り手としては自由度がその分失われて「面白くない」んですが。


 ……以上、真面目になりすぎ、予定していた二次元系の話をまったく挿入できなかったため、HatenaBlogへの投稿となりました。私の書いた「風刺」や、関連する二次元系のお話については、のちほど「otak.ayan part2」(ここからはリンクしません)に投げる予定です。

人称代名詞に「こだわる」こと、「こだわらない」こと

 どこからまわってきたのか忘れてしまったが、この文章を読んで、我が家での状況をおさらいしつつ述べてみたい、と思ったので、少し書いてみる。

日本語ジェンダー学会 学会誌(日本語とジェンダー)4号/第3回年次大会基調講演 「日本語とジェンダーおよびセクシュアリティ」(東洋大学講師 マリィ・クレア)

 で、このうち、我が家での状況に私が複雑な思いを抱いているのが、「人称代名詞」の項。ズバリ、一人称をどうするか、という問題である。

 

 問題の始まりは、私の一人称へのこだわりからであった。

 ジェンダーやセクシュアリティーに関しては、基本的に「こだわらない」のが私のポリシーなのであるが、どうしてもここだけは「例外」にしておきたい私。そんな私の一人称は、プライベートな場でも「わたし」。「おれ」は男臭すぎるし、「ぼく」はなよなよした感じがして使いたくない。事実上「消去法」で選んだこの「わたし」という一人称を、私は大事に使い続けている。しかし、私の妻*1が、「男言葉、女言葉は文化だ」という、私とはある意味相容れない考えの持ち主だったからたまらない。息子の一人称を「男言葉」に矯正させるための「旅」がはじまった。そう、息子が父である私を真似て、一人称を「わたし」と発声することを気に入らなかったのである。

 当然、最初に標的にされたのは私であった。しかしながら、私は「いや、これはわたしのポリシーだから絶対に変えない」と言い張ったためか、妻は仕方なくあきらめ、娘に協力を仰いだ。しかし、その頃の娘の一人称は「うち」*2。今度は、息子が一人称を「うち」と発声するようになってしまう。妻の心中のくすぶりようはいかほどだっただろう。

 しかし、やがて、娘は妻の意見に耳を傾け、協力体制を敷くようになった。家の中で息子と一緒にいるときには「おれ」を一人称にしたのである。その結果、息子の一人称も「おれ」となり、やっと平穏な団らんが訪れたのである。いまでは、大騒ぎするまでもなく、息子は息子で学友から影響され、娘は娘でフリーダムに、一人称を自由に選択しているようであるが、だからこそ、なぜあの頃妻が「一人称」にあれほどこだわったのか、いまだに不思議で仕方がない。

 

 そして、いま私は娘と息子から「パパさん」と呼ばれている。私自身は「お父さん」と呼ばせたかったのだが、これに関しては妻の「呼ばれ方なんて関係ないでしょ」という説得に屈して、やむを得ず従ったのである。しかし、この呼ばれ方は未だに好きになれない。「パパさん」と呼ばれると気が抜けてしまうのである。

*1:もと国語科教諭

*2:まあ、これも女言葉ですよね