われわれは現状打破に向けてどうすることからはじめるべきか――青年劇場公演『星をかすめる風』観劇記

※観劇記の中に「看護婦」という言葉が何度か登場しますが、舞台が太平洋戦争中の日本である作品中でその表現が使われているためであり、決して女性差別の意図はありませんので、最初にその点をお断りいたします。

 関東大震災のときに数多くの朝鮮人が虐殺されたことを追悼する集会に、今年も(四年連続で)小池都知事は追悼メッセージを送らなかった。虐殺された者の数が六千人という数値に根拠がない、というのがその理由らしいが、《集団としての日本人》には「都合の悪いことは申し合わせて隠蔽する」悪癖があるようで、この事件についてももちろん例外ではない。ノンフィクションライターの石戸諭氏は、Yahoo! ニュース(個人)の記事の中で、「今必要なのは、「6000人虐殺は証明されていない」と数の問題に還元するのではなく、人数の証明を困難にしてしまったメカニズムに目を向けること、そして誰が誤情報を流したかを見極めることだ。「虐殺は証明されていない」から得られる教訓は何もない。」と述べている(『関東大震災と朝鮮人虐殺「なかった」ことにしたい集会、誰が参加するのか?』、2020年9月2日付け)。

 観劇記の冒頭をなぜこんな序文にしたのか、と思われるだろうが、もちろん意味があってこうしている。青年劇場の舞台は、どんなに喜劇的な作りにしたとしても、必ずそこには「背景となる社会問題と、それをどうしたらよりよい方向に持って行くことができるか」が必ず描かれる。青年劇場初脚本・演出のシライケイタ氏を起用して作られたこの作品も例外ではなく、いやむしろ、現代の社会状況の漆黒さを、戦時中の事件を通して描き出す、喜劇的要素を一切廃した「重い」ものとなった。
 一応注意しておきたいのは、この作品内で間違いなく事実であり真実でもあることは、朝鮮人で日本に留学した詩人「尹 東柱(ユン・トンジュ=創氏名・平沼東柱)」氏が、治安維持法違反で逮捕、有罪判決を受け、収監された福岡刑務所内で終戦を迎えることなく死亡した、ということだけであり、あとはすべて推測をもとに描かれている、ということだ。しかし、それはこの作品において、尹東柱の死という事実より、もっと光が当たるべき真実がある、ということにほかならない。

 この作品の縦糸は、パンフレットの大きく描かれた日本語タイトルの中央を斜めに横断する英文タイトル「The Investigation(検閲)」、すなわち「原因追及のための捜査」にある。「焼却処分」という隠蔽の裏側で、「事実の裏にある見えない真実」を追及するある看守(本劇作品の主人公)の目的が、尹東柱や登場人物中のもうひとりの朝鮮人、刑務所職員である看護婦、九州帝大からやってきた医師とのインタビューを通じてどう達成されていくのか。そして無駄な要素をひとつ残らず切り捨てることにより、作品が訴えるメッセージは実にはっきりと伝わってくる。
 私が気づいた限りで、今回の作品内で登場する社会問題は次の通り:

  • すでに挙げた「隠蔽」の問題

 に加え、もちろん

  • 朝鮮人差別の問題(※いまでも決してなくなっていないどころか、嫌韓のメッセージが溢れかえるツイッターや一部言論界のなんと恐ろしいことか!)

そして

  • 「命の選別」の問題(※もちろん劇中には「コロナ禍」などという言葉は出て来ません。そしてこの裏側にある「真実」もまた……いやこれはネタバレになるので書かずにおきましょう)
  • あらゆるものや事象に関する「改竄」の問題(反対の意思がわかりやすく表現されています)
  • 男性による女性への性暴力の問題(そこまで言ってしまうはどうなのか、と思われる方もいるかも知れませんが)
  • (ほかにもあったのではないかと思いますが、一晩経ってしまい思い出せません。コメント欄にて追加いただければ非常にありがたく)

 そして、横糸は、尹東柱の詩や、代筆した手紙(※これは事実とは確認されていない)にある「希望の光」。それは、所内音楽会の伴奏を務めることになった看護婦の提案で、囚人たちが合唱することになった、ヴェルディのオペラ『ナブッコ』から「行け我が思いよ、黄金の翼にのって」によって補強されることになるが、それは「絶望」という名の暗黒の基盤の上に載せられているものであって、詩の一つ一つの言葉の影から現れるその感覚は、画面に端が欠けた布のスクリーンを下ろしてそこに詩文を写す演出によって、観る者により明確に訴えかけられる。そしてそれはさらに、この作品を通して《通奏低音》として流れるシューベルトの歌曲集『冬の旅』の楽曲たちによって、希望よりも遥かに明確に補強されている。

 さて、この作品において、「青年劇場の学生向けでない舞台作品」であることからもう一つ特筆されるべきことがある。それは「若手の大胆起用」だ。真実を追究する看守をはじめ、尹東柱や前出の看護婦など、主要な役柄の少なくない部分が「若者」として設定され、その通りに劇団の若手が配役されたことである。ここで「青年劇場初脚本・演出」という属性が生きた、ということかも知れないが、私が度あるごとに強調してきた青年劇場の「若手の成長」が、この作品でも改めて確認されたのは嬉しいことである。特に尹東柱役の矢野貴大の熱演と、ほとんどの台詞を観客に背を向けて語る看護婦役の傍島ひとみの訴える力が、この舞台の感動を高めるいい働きをしている。ベテラン勢の中では、崔致寿役の島本真治の狡猾さと、医師役の板倉哲の冷徹さが光った。残念ながら観客がそう多いとは言えなかった初日の夜の部だが、終盤にはすすり泣く声が多く聞かれた。

 そして、私がひとつ語り残したことがある。それは、青年劇場の舞台が大切にしているもう一つのこと、社会問題に対して「どうしたらよりよい方向に持って行くことができるか」についてである。
 大坂なおみ選手が日本時間のきょう、全米オープンテニス2度目の優勝を果たした。その技術的・精神的な成長の結果としての優勝という事実と、試合の度に「殺された黒人の名が刻印されたマスク」を着用することで、改めて黒人差別に目を向けさせるための行為を完遂できたこと、の二点に対して「おめでとう!」という言葉を贈りたい(でも彼女は「七人では足りない」とも述べたことは付記しておく)。彼女は優勝決定後のインタビューで、これら七つのマスクについて聞かれたのに対し、「メッセージをあなた方がどのように受け取ったかに興味があります」そして「より多くの人がこのこと(※=BLM=ブラック・ライブズ・マター)を語る(きっかけになる)といいと思います」と語った、と伝えられている。
 ここまででピンと来た方も多いかも知れない。この作品において、社会問題に対して「どうしたらよりよい方向に持って行くことができるか」については、舞台上での行動や台詞から明確に提案されることはなかった。しかしそれは、観る者ひとりひとりの胸の内に預けられた、という言い方が適切であろう。この舞台は、われわれに「隠蔽」や「改竄」、「命の選別」や「差別」などの問題に対して、「忖度」することなく「反対の意思表示をすること、発言すること」から始めなければならない、と訴える。ならば、今度はわれわれが行動でそれを示す番ではないか。
 そして、もう一つ忘れてはならないこと。それは、このコロナ禍の中、苦境に立たされている音楽や演劇を、その力を信じること、知恵をもって我々の世界を変えることに貢献できる文化芸術を積極的に支えていかなければならない、ということである。

(2020年9月12日観劇。9月20日まで、紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA、コロナ対策を講じた上で夜の部はまだ席に余裕がある模様)