「対象」に近づきすぎる報道に猛烈な批判――青年劇場「ファクトチェック」観劇記

 正直、見終わった直後は「人間ドラマ」が前面に出ていたように思えましたが、それはあくまでも「道具」に過ぎなかった、と一日置いて気づきました。奥が深い演目です。

(※これ以降の内容には物語の「ネタバレ」を含みますので、これから観劇予定の方は、観劇後にご覧になることを強くお勧めします)

 今回の物語は、現状のいわゆる「安倍-菅」的な「内閣主導」の政治の進め方をベースに、そこに切り込もうとする社会部から移籍してきたある新聞社の政治部記者[清原達之]の行動を追いかけていく、というもの。その過程に、この記者を取り巻く人間模様を分厚く描いていきます。

 単純に物語の表面だけをなぞると、「あれ? 今回の青年劇場の舞台って、人間ドラマが描きたかったの?」と思うこと必至なくらいの「人間模様」描写の分厚さ。しかし、それらが描かれているのは、あくまでも「報道」に関する問題提起のためである、ということを忘れることはできません。単純で変化に乏しく(とあえて言う)一直線な縦糸(政治報道のあり方、というテーマ)だけでは物語を成立させるには弱すぎるので、そこに複雑で変化が激しい、色とりどりな横糸(記者を取り巻く人間関係)を充実させて、その縦糸の「脆弱さ」をより引き立てようとした、と例えることができるかも知れません。結果、一時(いっとき)でも前文にあるような感情が出てくることもやむを得ない、という「覚悟」を持って。

 さて、この横糸として展開されてくる「人間模様」には、大きく分けて二種類あります。それは、「政治報道」を行う人たちの間の関係性と、「政治報道」以外の、取材対象であったり、元同僚であったり、家族であったりする人たちとの関係性です。その上で、主人公には報道の対象である「内閣官房長官」との関係がさらに被(かぶ)さってきます。この「内閣官房長官」(※どう見ても菅義偉氏がモデルとしか思えない)は、その「最も得意としている武器」(※あくまでも個人的意見だが、菅氏にはそれだけしか「切り札」がなく、トップになる資質などなかったことが首相になってからの一年間で明白になった、と言わざるを得ない)を使って、自分に反抗的な政治部記者(主人公)を手懐(てなづ)ける、という「戦術」(決して「戦略」ではないことに注意)に打って出ます。そして、自らの「戦略」だけに執着してその「戦術」に気づけない主人公を、「じっくりと話し合う」方法ではなく、「人事上の便宜を図る」という、主人公も望んでいない、ある意味卑怯な方法で、見事に服従させてしまうのです。

 結果、どうなるのでしょうか。主人公(以下「彼」)が取材対象とし、内閣官房への陳情にも同行するくらい支援していた、亡くなった原発作業員の妻[藤木久美子]からも、彼がその「取材ノート」を使って「内閣官房長官」を追い詰めようとした元同僚の女性記者[湯本弘美]からも、またひたすら「テレビ局に就職するため」に努力を重ねてきた彼の娘[中津原千恵、彼女は三役兼務]からも、強烈な批判を浴びせられ、「自分は『社会を変える』ためにここまでやってきたのに」と思いつつも絶望的な感情に至るわけです。この物語の最後には、バーのホステス[高安美子]からお酒を注がれてそれを飲み干し、「明日も仕事か~」と半ば叫ぶようにして自らを鼓舞する彼の姿があるのですが、その翌日、同じ男性で「新聞は売れればいい」と割り切る政治部部長の男性[葛西和雄]から、たとえ「お前は対象相手に踏み込みすぎた」として閑職に移されてもおかしくないというのに。

 ここまでの文章を読んで、鋭い方はすでに「あれ?」と思われていることと思う。この物語は、報道だけではなく、《男女間の隔絶》に対しても強烈な批判を見せている。そう、彼に強烈な批判を浴びせたのは、彼の妻[崎山直子]も含めて、圧倒的に女性なのだ。さらに言えば、出世のためには冷酷にならなければならない、と自らを律する内閣府の特命補佐官の女性と、官房長官付の中ではまったく目立たない女性新聞記者[大嶋恵子の二役]というあたりからも漂ってくる。そして、その批判が確定的になったのは、主人公が「取引条件」として内閣官房長官に掛け合った対象が「(選択的)夫婦別姓同性婚」という、自民党内で特に「日本会議」や宗教右派を大切にする人たちからは絶対に否認される、しかしながら「多様性」を重んじる立場だけでなく多くの市民から支持されている政策であることからも伺える。そして、そのカードを切ってすら、女性たちからの批判は止まらない。ここではじめて、《「対象」に近づきすぎる報道への猛烈な批判》という、最も作者が訴えたかったであろう「対象」に大きなスポットが当たることになる。

 この「多重構造」が、見るものにどういう印象を与えるかは、観る者の「感性」に委ねられることになる。あくまでも青年劇場側が「ジャーナリズムのあり方」に対する問題提起だ、と謳っている以上、それがどれだけ重い批判であり問題提起であるか、が多くの観客に伝わることを祈る。

 (追記1)このスナックのママさんからは、飲食店に対する補償が足りない、という主張もありましたね。

 (追記2)[ ]内に書いた役者の皆さんの熱演(加えて政治部デスク[北 直樹]の飄々とした演技)も印象深いものでしたが、女性が二役三役を兼ねる状況が劇団にとって果たして現状に満足できるものであるのかどうか、という問題提起も同時にされているようにも思えてなりません。

 (追記3)今回はパンフレットを読まずに書いていますので、私自身が「作者の真に訴えること」を正しく理解できていない可能性があります。自身へのファクトチェックは記事をアップしたあとで(ぉぃ)