再演でより定まった「方向性」――『雪まろげ』新歌舞伎座公演・鑑賞記

 「高畑さんチーム」各メンバーの色がはっきりして、笑わせるところ、泣かせるところのメリハリができ、その「方向性」が定まってきた再演――ひとことでまとめるなら、このような表現になると思います。

(以下、敬称略です)

 正直、公演の収支的には苦しいのかな、という感があります。東京でも600席ほどのシアタークリエで3週間の上演だったものを、大阪でほぼ2週間、1500席近い新歌舞伎座に持って行って上演しているわけで、無理があるのは止むを得ないところがあります。1階席中程、ほぼ中央の席で鑑賞したものの、周囲に空席もちらほらあり、といった具合。しかし、今回東京での公演はなく、この再演チャンスを逃したら「後がない」とばかりに、スタッフも役者も健闘した公演でした。

 そのことは、販売されていたプログラムにもよく現れていました。通常、好評を博した舞台の再演なら、新聞社の文化部の演劇担当記者による「この役者のこんなところがイイ!」という「祝辞がわりの賛辞」と、演劇評論家による「この舞台のこんなところが素晴らしい!」という「ヨイショ記事」が並ぶものなのですが、そういうものは一切なし。演劇評論家の記事は、ひたすら森光子バージョンの変遷を述べる(2016年の公演に関する内容は140行の記事中たった5行だけ)という、正直必要性が疑問な記事一つだけという状況。明らかに「背水の陣」だったことがわかります。それに対して、キャストトークは「再演で こんなところが よくなった」の羅列で、こちらこそが一見「他人がヨイショしてくれないので自分でヨイショします」記事になっていたわけです。

 そして、実際はどうだったのか。

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 前回公演の観劇記で私は、《この観劇記にこの舞台の「喜劇としての良さ」が書かれていることは期待しないでください》と書いた。確かに笑えるところは多かったのだが、基本構成(群像劇として描くことと当て書き)で勝負し、役者も必死で演技したものの、「評価してあげたいんだけどねえ」という感情の表出として一部に見られた「準備不足」という評の厳しさが、初演の「評価」を決定づけてしまった、と推測できる。

 制作側は、書かれた劇評をよく読み込んだのだろうか。拙稿も読まれたかもしれない。どうすればそれぞれの役と演者のよさが引き立つか、どうしたら「喜劇」としてのよさがより際立つか、「地方の温泉芸者たちと周りの人たちの群像劇」としての書き込みをしっかり行った初演の演出のよさは残しつつ見直したのだろう。その結果がこの公演ではしっかり出ていたように思う。

 プロデューサー、監修、演出といった「公演を支える基礎」となる方々により、「群像劇」を演出するためのチームワークはそのまま継続しつつ、笑わせるところはきっちり笑わせ、泣かすところはしっかり泣かすことができるよう、それぞれの役者の演技特性に合わせた「加筆」部分を増やしての対応が行われた。その結果として、初演に比べて特に生き生きと演技していたのが、湖月わたる青木さやか山崎静代の三名。そしてその恩恵を存分に受けたのが、主役の高畑淳子本人と、記者役の的場浩司だったように思う。特に高畑は、自分一人の頑張りだけではなく、まわりからの「刺激」と「支え」を受けて、より安心して「夢子」としてのパーソナリティーを前面に出すことが可能となったように思われる。その結果、最終場の「背中での演技」が決して「寂しさ」だけのものではない、という印象を残すことができ、初演でのこの場面に関する一部ネガティブな反応をうまく吹き飛ばしたのではないか。役者一人ひとりの可能性がより発揮されるようになると、舞台全体がより軽やかに回りはじめ、より深い感動を与えることができるようになる。そういう「いい方向性」が固まりつつあるのがこの大阪公演、といっていいだろう。

 メインキャストの中で、あと二人の名前が出てきていないが、柴田理恵と榊原郁恵の二人は、「加筆」部分がほとんどなかったキャストである。柴田理恵に関しては、初演から「安定した演技」をしていたと私は評価していたが、それを裏方も認めた、その証拠であろう。また、榊原郁恵については、もともと極端な書き分けがされていたところ、「榊原郁恵だとわからない人もいた」

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(これはこの人のとてもいいところであり、かつ実は損なところでもある)とするまでの役作り。そして前回公演でも評価した津軽甚句の舞踊を含む接待の場、榊原がその成長ぶりを遺憾なく発揮した。特に指先まで神経の行き届いた「たおやかな」という表現がふさわしい舞が素晴らしい。

 ここまでで述べたとおり、大阪での『雪まろげ』再演では、キャスト・スタッフのこのチームにとっては、方向性がより明確に定まったという意味で、大きな収穫があったのではないか、と見る。あとは、評判を聞いて「森光子版とはまた違う『雪まろげ』でもいい」とする演劇ファンがどれだけ観客席に戻ってくるか、そこの勝負だろう(いまのところ「評判」を喚起する劇評が見当たらないのは残念だが)。

(タテ線の人)