ほんとうに包摂されたのは誰でしょう?――青年劇場「つながりのレシピ」観劇記

 私はずっと涙を流して泣くことができなかったのですが、何十年かぶりにボロボロと涙を流して泣きました。カーテンコールで「ブラボー!」と叫んだのは誰あろうこの私です。そんな素晴らしい演目のご紹介です。

 

※以下、ネタバレ多数ですので避けたい方は「続きを読む」はクリックしないでくださいね。それと敬称略。

 

 

 正直に言っておきます。最初の4-5分は「これ、物語と何の関係があるんだ?」と思えるほどかったるいです。でも、そこは我慢してください。我慢するための方策として、そこで語られるセリフ群を頭の中によく入れておいてください。やがて登場人物が増えるにつれ、確実に物語に引き込まれていきますから、そこはご心配なく。

 

 会話の中で、予備知識のない人にとっては「まさか」と思うような事実が語られます。実際にそういう事実がセリフとして話されたときに笑ってしまう人も多かった(私としては内心「いや、ここは笑うところじゃない」となってしまいますが)。劇自体は「ノンフィクションを題材にはしているがフィクション」という作りになっているのですが、劇作の福山啓子氏は綿密な取材をもとに「事実を伝えつつ、同時に劇として感動を呼ぶ作品を産み出す」スペシャリスト。まさに青年劇場らしい作品に仕上がっています。

 

 この物語で触れられる問題点は、少なくともこれだけあります(私が見逃したものもあるかも知れません、もしありましたらコメントでご教示ください)。

  1. ホームレスと呼ばれる人たちの実態。
  2. 生活保護申請者を窓口で追い返す「水際作戦」を平然と実行したり、「どうせそういう(いわゆる《普通》から外れた)ヤツらがやったんだろう」という観点から犯罪人を決めつけようとしたりする「行政」側の問題。
  3. 「権力」に弱く、生活弱者のことをあまりわかろうとしない一般市民の問題。
  4. 特に必死になって働く男性の、家族や地域のことには目もくれない、というかもっと言えば「そんな心の余裕がない」かつ「そういうことの必要性を認識していない」問題(劇中では「職場と家と赤ちょうちんの三点往復生活」と揶揄されていますね)。
  5. 精神障害や知的障害・発達障害について、それぞれどんな症状があるのか、が正確に知られていない問題。
  6. 職場内でのハラスメントなどによって起きた精神障害への無理解(特にこの物語の中では「周囲の不理解」にとどまらず「精神病患者本人の無理解」も含めて語られていました)。
  7. 家庭内暴力(DV)や不倫、不登校や引きこもりといった夫婦・親子間での問題と、引きこもりの裏にある関係性(もちろんケースバイケースではありますが……この話の中では親による過干渉が示唆されていました)。
  8. いわゆる「虐待の(世代間)連鎖」の問題、ならびに「虐待する親」も何らかの問題を抱えていること。
  9. 薬物依存の「治療」の必要性とそこに立ちはだかる問題点(主人公にスポットを当てればアルコール依存についても触れていることになるかも知れませんね)。
  10. もちろんこの物語の主たるテーマである、地域での「コミュニティによる社会的包摂」について、それをどのように形作っていくのか、そのための障害は何か、という問題。

 

 これらが複雑に絡み合った上で、定年後妻に先立たれて酒浸りになっている主人公・橋本陽一(葛西和雄)に襲いかかります。妻と娘による「罠」と本人は思ったのかも知れませんが、妻は「社会的包摂」の必要性に以前から気づいていました。そして、夫がやがて「社会的に包摂される」ことの必要性にも。しかし、周りから自宅が「社会的包摂」の実践の場となることについて、拒否したい主人公への「反対意見多数」により退路を断たれ、半分自棄になりながら「好きにして」と言い続けたことが、「社会的包摂」実践の場で起きるできごとを通してやがて彼自身に「気づき」を与え、その姿勢を大きく変えていくことになります。

 

 これ以上の物語の詳細をここで書くのは野暮なことでしょうから書きませんが、上の問題点の最後に挙げたテーマについて、ひとつの(あくまで一例でしかないことには注意)解決策を示します。それは、社会的包摂が必要な人が支援者との「共同作業」を通して、それぞれのできることをしつつ助け合うなかで、お互いがお互いを「よく知る」こと、それぞれの「個性」を「尊重する」ことによって、お互いにとって居心地の良い環境、すなわち「みんなの居場所」を構築し、確保すること。もちろん、現実はこの物語のように上手くいくとは限りませんが、一人ひとりの温かい心と、真摯な姿勢があれば、「みんなの居場所」を、「社会的包摂のためのコミュニティ」を作ることができるんだ、という「希望」を示します。その「希望」が、特に主人公の変わりようによって(包摂されている総ての人々から、なのですが、特に、です)わかりやすく示され、観客の多くがハンカチを手に持ってすすり泣き、流れる涙を拭く、それが出演者にも伝わってさらに演技に熱がはいる、という好循環を生んでいくことになりました。これぞまさしく「舞台演劇」の醍醐味であり、劇作家や演出家にとっても、役者たちにとっても、本当に心から嬉しいことであるに違いありません。

 

 この公演に関しては、誰の演技がどうだった、ということはあえて語りません。それぞれがそれぞれの立場をわきまえつつ精一杯の演技をきちんとこなしていくことで大きな感動が生まれたのですから。この公演に携わった総ての人たちに、感謝の念を捧げます。

 

 14日まで(8日は休演)、東京新宿・紀伊國屋サザンシアターにて。7日観賞。

 


 

 失礼ながらP.S. 私が勝手に思ったことがら

(1) あの「レシピ」がなかったら、そして娘に連絡が行っていなかったら、最初の場面、主人公が酒に酔って友人に担ぎ込まれた寝かされたあのソファの上で、主人公はそのまま息絶えていたかも知れない(芸能人でも妻に先立たれてすぐ後を追うように鬼籍にはいってしまう男性をよく見かけます)。

(2) あのあと、きっとあのお母さんも、自分の辛かった過去を話して、皆に許され、包摂されていくんだろうなあ、そして「包摂の輪」はさらに拡がっていくんだろうなあ、ということ。

(3) 最後にP.S.の中で一番重要なこと。私は「社会的包摂」の必要性にとっくの昔に(子ども会や町内会役員の仕事を通して)気づいていた人なので、主人公とともに「自分も気づく」という、この物語の「一番の狙い」について感想が書けません。私の涙は、主人公が、(私が「予定調和」と感じた=これは決して悪い意味ではなく、この物語を《安心して》見るための必要条件=)私から見て「あるべき方向」に変わっていく様に対して、「そうだよ、それでいいんだよ、よかったね」という意味でのそれだったからです。そして、その感情が、自分自身に対しても向けられていたからです。